The story behind W124
1985年
あなたは幾つ覚えておられるだろうか。懐かしく感じられるのはどれだろう。いやいや、まだ自分はこの世に影も形もなかった、そういう方もたくさんおられるかもしれない。
松田聖子と神田正輝が「世紀の結婚式」をあげ、任天堂からスーパーマリオブラザースが発売され、メンズDCが爆発的な人気を博した。阪神タイガースが21年ぶりにセ・リーグ優勝を飾り、巷にはチェッカーズの『ジュリアに傷心』が流れ、映画は『ゴーストバスターズ』が大ヒット、すべて1985年の出来事である。メルセデス・ベンツW124シリーズが日本に上陸したのもこの年のこと、前年、本国ドイツでデビューを果たしたミディアムサルーンが我々の前に姿を現した。
ちなみにW124というのはプロジェクトに与えられたコードネームで、93年のマイナーチェンジからEクラスと呼ばれるようになった。Eとは燃料噴射付きガソリンエンジンを表す。
逆境に育てられた
日本のバブル景気は86年12月から91年2月頃までと定義されているが、肌感覚で言えば85年はすでに予兆を感じさせた。まだ、株価や不動産価格の上昇、個人資産の拡大といった”数値”こそ見られなかったけれど、社会全体にイケイケの風が吹き始め、コトやモノに明らかにそれまでとは異なる新しさが生まれつつあった。W124もまたこんな新風にのってやってきた「ガイシャ」、しかしこのクルマが企画されたきっかけは、世界が第一次オイルショックに見舞われたことだった。
自動車は逆境に育てられる工業製品だ。二度の世界大戦はクルマの販売をストップさせたものの、欧州メーカーは戦時中、軍需車両や航空機エンジンを手がけ、技術力を磨いた。このとき培われた技術力が第二次世界大戦以降、クルマを大きく発展させ、花開かせたのである。
オイルショックによって突きつけられたのは省燃費と効率の実現、さらには安全性の向上。言わば地に足のついた自動車作りだ。それを極めて誠実に行ったのがメルセデス・ベンツ。1977年からプロジェクトされたW124は、彼らが早くから掲げたモットー、『最善か無か』(Das Beste oder nicht)の集大成として具現化された。
さあ、このクルマで出かけよう
「ベスト」はどんな形で具現化されたのだろうか?
「自動車のあるべき姿」を提示した、これがW124シリーズを語る上でもっとも相応しく感じられる。当時、自動車雑誌はこのクルマを「正しい自動車」と表したものだった。実に的を射た表現だと思う。
カタチに奇をてらったところはない。見るからに信頼のおけそうな頑丈なボディ。古典的なカタチをしているが、滑らかで美しく、整っている。あの頃、誰もが感心したのはドアの閉まり具合だった。
優れたパッケージングは高い居住性を実現、トランクも広々としている。視界の良さも特徴的だ。計器類はとてもシンプルで機能的。スイッチ類も然り、使い手を戸惑わすことはない。ファブリックのシートには体を支える厚さがあるものの、ふんわりと受け止める寛容さを備える。
ドアを「ガチャリ」と閉めて広々とした室内にこもると、そこに漂うのは安心感。さぁ、出かけよう、そんな気持ちにさせてくれる。
走る、曲がる、止まる
「正しい自動車」がもっとも感じられるのは「走り」、ここに疑いはない。W124はまっすぐ走るということ、綺麗に曲がるということ、しっかり止まるということ、自動車にとってもっとも大切な3つの機能を見事に実現した。瞬発力より平均速度の高さを大切にするエンジン、手応えのあるステアリング、豊かなストロークの与えられたサスペンションが心地よいドライビングを生み出す。
オイルショックは自動車に暗雲をもたらしたが、再び陽光を取り戻すことができたのは、コストを惜しむことなく上質なクルマを作るというメルセデスの信念と哲学だった。目の前に迫った危機を経費節約や予算削減で乗り切ろうとせず遠くを見た結果、ハイクオリティの自動車が生まれたのだろう。細かな部品にもコストをかけたことで息の長い自動車が出来上がった。W124がサルーンの理想像としてフォーエバーとされる所以のひとつである。
クラシックカーの世界に足を踏み入れよう
時はながれた。今ならW124の真の姿を捉えられるのではなかろうか。何より、このクルマには現代を生きる我々の求めにマッチしたところが多い。ミニマリズムというと語弊があるが、W124が備える「すべて」はエッセンシャル、でも過剰ではない。デザインされているが、そこに装飾は見当たらない。まっすぐ走り、綺麗に曲がり、しっかり止まる。クルマが持つべき基本を最大限に引き出している。